[spritzer]

彼の資質の中でいちばんすぐれた部分

 神様は痔なんだ。それか歯痛。
 親知らずで頬を腫らしてのたうっている憐れな老人を思い浮かべ、フランスはどうにか天への悪態を飲み込む。
 三日ぶりの我が家は散々なありさまだった。
「……忘れてた」
 力なく凭れたスーツケースは軽快にキャスターを滑らせ支えになってもくれない。メルシー、リモワ。ドイツが誇るプロダクトは、今日も絶好調でフランスと相性が悪い。フローリングにスーツの膝をついたままフランスは切実に思った。旅に出たい。何もかも忘れて。
 頭の痛くなる会議をこなしドイツから帰ってきたのが今日の昼過ぎ。まっすぐ帰ってちょっと体を休めたら最近仲良くなった女の子のいるバーに顔でも出そうかなあ場合によってはそのまま彼女の家に呼ばれてもいいかも……なんていう幸せな予定は、シャルル・ド・ゴールで携帯に電源を入れ直した途端にご破産になった。官邸に呼び出され半泣きになりながら書類を作っては投げ、作っては投げ。日の長い西欧の夏もすっかり暮れた日付変更直前にやっと開放された時には、フランスの心は路地裏のチラシよりくちゃくちゃのしわしわだった。こんな最低な一日は、女の子の柔らかい体に顔をうずめて終わるべきだった。だが、今日ばっかりは魅惑のおっぱいへ辿り付くためのやりとりや駆け引きが死ぬほど面倒で、フランスはそんな風に感じる自分にも落ち込んだ。愛の国のフランスが! このひどい状況! ぼろ雑巾みたいな気分で、それでもこれだけは譲れないと車をまわしてもらい、今日はもう何もしないで寝よう、と決意に似た足取りで開いた玄関の向こうはアメリカのところのハリケーンに揉まれたみたいに荒れていた。出かける直前パスポートを探したんだった、と思い出す頃には、もう立つ気力さえない。
 よろよろしながら半開きのキャビネットを閉める。ひどいことになっている床の上から本を一冊ずつ拾った。旅に出たい、ともう一度思う。隠れ家みたいな小さなホテルで、ホスピタリティの塊みたいなサービスを浴びるほど受けたい。人の手が時間をかけてつくった料理と新鮮なフルーツを食べて、オイルを垂らした湯船に体を伸ばして、ふわふわのバスローブに包まれたまま石鹸とアイロンの匂いがするきちんとメイクされたベッドにダイブしたい。
 ずーっとむかし、口説いていた女の子がふと「ママに会いたい」と溢したことを思い出す。背骨のラインがきれいな子で、長い睫毛を伏せて疲れた顔をしていた。その頃フランスは陰のある女が好きだった。お兄さんじゃだめかな、と長い髪を指に巻きつけると、彼女はさみしそうに笑って言った。私を抱きたいと思ってる男じゃ、だめよ。
 当時はなんて子どもっぽいことを言う子なんだろうと思ったが、今はあの言葉がよくわかる。外でラフに扱われた日は、うちでぐずぐずになるまで甘やかされるしかない。そういう時に女とか男とかって関係はかえって邪魔になるものだ。
 荒れ果てた部屋になんとか通り道だけ確保して、フランスは今日の自分を許すことにした。今日はもう寝る。寝てやる。すべては後回しだ。明日の俺に幸いあれ!
 ベッドにもぐりこむ。だがフランスは眠れなかった。ピローケースに髪が触れる。よく馴染んだ羽布団は今夜に限っていつまでもあたたまらなかった。朝になったら片づけをしなくちゃ。そんで、布団を干して、空っぽの冷蔵庫に食料を買いにいく。ああ、それまでに職場から連絡が来ないといいんだけど……。フランスがやりたいことはほんの少しだ。美味しい食事を取ること、清潔な場所で眠ること、それからたくさんの愛と少しの楽しみ。とても贅沢で、とてもささやかなこと。それすら望めなかった、今日の俺――。そんなことを考えていたら、なんだか今日の自分があんまりにも憐れに思えてきてフランスは自分でも驚いた。おいおい、と思っているうちにまぶたがじわっと熱くなり、さすがにそこで、なにこれおかしい、と顔を覆った。そんなに感じやすいタイプじゃないはずだ。いつも瞳に水気をためているようなお隣の坊ちゃんや、歌うように日常を感じるイタリア。そういうやつらのもつ繊細さは、俺に似合うものではない。
 わざと長く息を吐く。寝返りをうっても状況は変わらなかった。目の辺りの熱は引いたが、喉がぎゅうぎゅう苦しくて辟易する。時計と空調の音がやたらに大きく聞こえた。持ち込んだモバイルを手の中で転がす。無条件に誰かに慰められたかったが、相手が浮かばなかった。
 ママに会いたがっていたあの子。あの子とはどうやって別れただろう。家族というものをフランスは知らない。人ならば親もいようが、それもない。長く生きた中でフランスは人として十五回結婚したことがあるけれど、どれも相手に強く望まれたもので自ら拠り所を求めたことは皆無だ。人のかたちをとる自分たちは時に家族の関係を模す。けれども、それは本当の意味での家族だろうか。
 その時、手の中の端末がぱっと光った。眩しさに焼かれ、ぎょっとするフランスの腕の下で、携帯端末は午前二時とひとりの名前を液晶に映し出し静かに震えている。
『アロー?』
 飛び込んできた言葉はよく知った抑揚だった。やたらと威圧的だったり早口だったり嫌味っぽかったりしない。自分のよりも少しだけ穏やかなフランス語は過剰なほど耳に心地よかった。
「カナダ」
『えーと、あれ? フランスさん? どうしたんです?』
「どうもこうも、お前こそどうしたの? 珍しいね、そっちからかけてくるなんて」
『えっ』
「え?」
 ふたつの沈黙が重なった。先に我に返ったのは、年かさの方だった。
「お前からかけてきてくれたんじゃ、ないの?」
『僕、フランスさんからの電話に出たんです、けど……えっ、あれっ?』
 どういうことでしょう、と混乱したようなカナダの声を遮るようにフランスは明るく笑った。
「どうもしないよ」
 神様は痔だった。それか歯痛。
 そんな日は、少しくらいの不可解に目をつむるべきだ。
「からかってごめんね。お兄さんからかけたんだ。お前の、声が聞きたくてさ、マシュー」
 子どもの頃の呼び名で呼ぶと回線の向こうは沈黙した。そしてやわらかく息が漏れるをさせると、カナダは笑いを含ませたまま、嘘ばっかり、とやさしくなじった。
『調子がいいことばっかり言って。僕がよっぽど暇だと思ってるんでしょう?』
「まさか!」
『声が聞きたくて、なんて言ったの、今夜は僕で何人目?』
 フランスの否定は、本当にこころの底からの言葉だったのに、カナダは慣れたお世辞をあしらうように、ふふ、と笑うきりだった。
『それで、今日はどうしたんです? 女の子に振られちゃったの? それともイギリスさんとまた喧嘩? ねえ、僕もう仲直りの仲介はしないからね、フランスさん。――フランスさん? ね、聞いてるの?』
 うん、とフランスは頷いた。聞いてる。ちゃんと届いてるよ、マシュー。フランスは気付かず微笑んでいた。声を聞いた瞬間から胸の奥にゆるくほどかれるものがあった。冷たく凝っていたものがベッドの足元から抜けていくのを感じた。白い布団が本来のやわらかさを取り戻して疲れた体をそっとつつんだ。
「電話してて大丈夫?」
 しばらく他愛のないおしゃべりをして気付いた。北米はまだ夕方だ。仕事の時間じゃないかと心配すると、カナダは案外平気な声で、問題ないよ、と答える。
『今ちょうどおやつを食べようって思ってたところだったから。あ、笑わないでよ。やっぱり僕のこと暇人だって思ってるでしょう? ちがうったら。ちゃんとしてるよ』
「わかってるよ。お前はいい子だもの」
『……ねえ、それ子ども扱い?』
「そんな風に思ってたの? ちがうったら」
『本当に?』
 ふてくされて、甘えた声。カナダのこういう声を聞いたことがあるやつがどれほどいるだろう。子どもじみた優越感が不思議と心をあたためる。誰も聞いてるはずもないのに、掛け布団の中にもぐって、内緒の話をするようにフランスは声を潜めた。本当に違うよ、と囁いた声は、自分でも驚くほどやさしかった。
「つまり、お前を愛してるよ、ってこと」
 彼の存在をありがとうございます、神様。
 悪態をつくときくらいしか思わない存在をフランスは胸に呼んだ。家族を知らない俺たちを、それでも人のかたちにしてくれたことを感謝します。
『……本当に、どうしたの? 今日なんだかおかしいよ』
 いつもおかしいけどさ、なんて小憎らしいことを言う電話口を耳に押しつけながら、フランスは、やがて訪れるだろう眠りの気配に耳をすませた。

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