燃え尽きる寸前の光
もう桜も咲いていたというのに、濡れた髪がずいぶんと冷たかったのを、今でも覚えている。
一年と少し前の話だ。
そろそろ布団に入ろうかと文机から腰を浮かしたとき、遠慮がちに障子が叩かれた。ふとしたら聞き逃してしまうかもしれないくらい微かなおとないだった。月あかりが作る影の形は馴染んだ人のものだ。いつもなら声をかけると同時に入り込んでくるくせに、今日に限って何を遠慮しているんだかいつまでも入ってこようとしない。「どうぞ」と言ってやると、やっと細く障子が開いた。春の宵のふわふわと浮ついた空気が一筋流れ込んだ。竹谷はするりと部屋に入り込むと後ろ手に障子閉めた。
「ごめんな」
「なにが」
「だって、寝るとこだったろう」
「そうだけど。いいよそんなの」
突っ立ったままでいるので「座れば」と促すと、うんと頷いてのろのろと腰を下ろした。視線は下を向いたままだ。らしくないことこの上ない。
「あぁ、」
竹谷はひとつ胸の奥から搾り出すように息を吐いて、そのまま後ろ向きに布団に沈んでいってしまったので、兵助の位置からは竹谷の鼻の穴と閉じられた睫毛しか見えなくなった。風呂に入ってきた帰りなのか、夜着に包まれた体は水の匂いを放っていた。
「どうした?」
「うーん。顔がみたくなって?」
自分でも白々しいとわかっているのか語尾にはふざけたような音が混じる。
「ばか。そういうなら俺の顔を見てみろ」
そう言ってやればこちらを向くかと思ったが、竹谷は「それもそうか」と目を閉じたまま笑ってそれきりまた黙ってしまう。快活で思ったことをすぐ口にするのが竹谷の常だとしたら、今夜の様子は明らかにおかしかった。実のところ、兵助には竹谷をこうさせている原因にひとつだけ心当たりがあった。たぶん十中八九その当ては外れていない。だがそれをこちらから口にするべきか迷いがあった。もしもこれが自分でなく三郎だったなら躊躇いもなくずばりと切り込んだろうし、雷蔵だったら竹谷が話しやすい雰囲気を自然につくれたろうに、そのどちらもできない話下手な自分を兵助は少し呪った。
「へいすけ」
兵助がもどかしく会話の糸口を探っていると、しばらく微動だにしなかった竹谷がぽつりと口を開いた。幼子のような弱い声にびっくりして「なんだよ」と返すと、焦れたようにもう一度「へいすけ」と呼ぶ。仰向けに倒れたままの体から伸ばされた右手がひらひらと揺れた。いざり寄ると、あ、と思う間もなく手首を掴まれて次の瞬間くるりと視界が反転していた。頬にひやりとした感触が当たった。ぎゅうと締め付けられて、兵助は自分が抱きしめられていることに気づいた。
「なにすんだ」
布団の上に引き倒され痛いくらいきつく抱かれてはいるものの、竹谷はそこから動こうとしなかった。兵助も何もしなかった。これでこの手が背を這い回りでもしたら殴ってやるところなのだが、竹谷の抱きしめ方はいやらしさの欠片もなく、まるで子供のそれだった。抱きしめられているというよりもしがみ付かれているというのが正しい。重なった体も頬に張り付いた竹谷の髪もびっくりするくらい冷たかった。
「竹谷?」
持て余していた腕をまわして背を軽く叩くと竹谷は深く息を漏らした。
「兵助」
「うん?」
「今日、俺はひとをころしたよ」
一言ずつ、噛み締められる言葉の意味を、その感情を兵助は思う。そうだと思ったと呟くと、耳の横で、知ってると思ったと竹谷が笑った。くすくすと笑う振動につられてまた頬に髪が触れる。やはりその髪はひんやりとしていた。きっと風呂に入ったのではなく水を使ったのに違いなかった。つい先週、兵助もそうしたから、わかった。水気と共に微かに錆の匂いがした。否これは、誰かの命の匂いだ。だくだくと流れたあたたかな血の匂いだ。
「温かいなあ、兵助は」
「ばか、お前が冷たいんだ」
いつまでもぎゅうぎゅう抱きついている腕を押し返すと、思いのほか簡単に開放される。ふたりしてころりと転がって並んで天井を見つめた。灯りはもうほとんど消えかけて、時折じじっと鳴きながら燃え尽きる前の強い光を放った。
兵助の標的は若い小柄な男だった。目の前に降り立った瞬間、喉笛を狙う。やったことはそれだけだった。実習で何度も繰り返した動作だった。違うのは手のひらに深々と肉を断つ感触が残ったことと、男の目が信じられないという面持ちで兵助を見つめていたことだけだ。突き立っていた小刀を一思いに引き抜けば血の雨がばらばらと頬を叩いた。ひゅうっと男の喉が鳴った。吸う息も吐く息も断末魔の叫びも喉に開いた風穴からすべてが漏れていった。そこから出て行く命さえも見えたような気がした。その穴を開けたのは自分だった。男は苦しげに幾度か呼吸を試みて絶命した。見開かれたままの瞳から光が消え、ただの真っ黒い淵になった瞬間を兵助はたしかに見た。
男がすっかり冷たくなってから控えていた木下先生にねぎらわれ学園に戻り水を浴びた。頬を濡らした血のぬくもりが消えるまで水を浴び続けて、最後に吐いた。合戦上に出入りすることも増えて、死体なんか見慣れてしまったと思っていた。虚ろに空いた眼窩に虫が蠢いているのを見たって鼻の頭に皺がよるくらいの、そんな薄い嫌悪感しか抱かなくなる程度に死は近くにいた。それが忍びの道と思っていたから、辛いとか悲しいとか怖いとか、そんなことは一度だって思ったことがなかった。現に、人を殺した事実そのものに対して、兵助は驚くほど冷静だった。それなのに。
竹谷はどうだったろうか。普段は生物委員として生き物を慈しんでいる手が闇の中でひらめいて命を断つ様を想像しようとしてもどうしても上手くいかない。
「竹谷」
「なんだ」
呼びかけたまましばらく言葉を探す。竹谷はじっと兵助の言葉を待っていた。
「怖かったか?」
結局気のきいたことは何も見つからなくてそのままの思いを口にする。我ながら馬鹿なことを訊ねているという思いはあったが、どうしても竹谷の口から彼の言葉でその答えを聞いてみたかった。竹谷は少し考えてから、わからないとぽつりと言った。
「あんまり簡単で、あっけなくて、それなのに永遠のようで、切なかった」
人を殺した日にこんなことをいうのおかしいと思うか? そう結んだ竹谷の声はひどく真摯で兵助はなにも考えれずにただ首を振った。それだけじゃ足りないような気がして「おかしくなんかないよ」と声に出して言った。顔をあげると不思議なほど澄んだ竹谷の瞳が兵助をまっすぐに見ていた。今日はじめて合わせた竹谷の目は、いつもの、生きている、人間の目だった。
投げ出していた腕にそろりと熱が触れる。境界を確かめるようにゆっくりと下りてきた指をいたわる気持ちで繋ぐ。もう竹谷の体はつめたく冷えていなかった。
「兵助、それでも俺は忍になるよ」
「うん。……うん、俺もだ」
その日はそのまま兵助の部屋で布団を並べて寝た。意識を手放す瞬間まで、指先だけを繋いで、眠った。
竹谷が人を殺した晩。兵助がはじめて人を殺した日から、ちょうど一週間後の夜だった。
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