野分
狐
泊りがけでした仕事の帰り軽く一杯と入った店で、隣りあったのは狐であった。
「本田」と俺は低い声で呼んだ。
「狐がいるぞ」
「そりゃあいますよ、そのくらい」
童顔の同輩は当たり前の顔で品書きから目も上げない。会議の最中よりもよっぽど真剣な眼差しが墨書きの文字の上を忙しそうに走っている。まながつお、かに酢、ううん、しんじょ蒸しもいいですねえ……などなど。こと、食べることに関して、この男の執着はおそろしい。あなた食べられないものありましたっけ、と申しわけのように聞いてくるのに、なんでも食える、と呆れて答えながらそっと背後を覗き見ると、やはりそこにいるのはふっさりと豊かな毛並みの獣なのだった。
冬の毛なのか、そもそも種類が違うのか、自国で見たことのあるものよりいくらか色の薄いように思われる。ぴんと尖った耳を立てて、ほんのり黒ずんだ細長い手を上げ下げして猪口を傾けているのが器用であった。店には自分たちの他にもう何人かいたが、そのうちの誰も四つ足の獣がひょいと立ち上がっておとなしく飲んでいることに疑問を抱いていないようである。そうこうしているうちに机の上にあれこれと並びはじめ、いくらか酒も入ってくると俺もなんだか腹をくくってそういうものだと思うことにした。狐だろうが猫だろうがなんということはない。本田のうしろでゆらゆら揺れる金の尾が視界に入ってうっとうしいが、言ってみればそれまでである。
「おにいさん」
呼びかけられたのは、ビールの瓶と徳利が数本空いたあとだった。つややかなその声に俺はびくりと肩を揺らした。
「おにいさんたち、お仕事のお帰り?」
さっきまで黄金色の毛皮を着た獣がいた場所に、いつの間にか女がひとり座っていた。今時珍しい和装姿で、結い上げたえりあしがやけに艶かしい。少しきつい印象の細面の顔立ちに、山葡萄の色そのままの紫で秋の草はらを描いた白い着物がよく似合っていた。
「そうですよ。おねえさんは、おひとりですか」
本田は物慣れたようすである。
「ええ。でもひとりで飲むのも飽きちゃった」
「そんならこっちに交ざりませんか」
「あら。でも、そちらの方は?」
「このひとは、さっきからあなたが気になって仕方ないんですよ。ずっとちらちら見てたでしょう」
「本田、やめろ」
「あらあら、お上手」
女は白い手で口元を隠す。化粧っ気のない顔の中で切れ長の目尻が墨でも引いたように黒々と光っている。俺は自分の頬が熱くなるのを感じたが、それが酔いのせいなのか、からかうように細められる二対の瞳のせいなのか判断はつかなかった。
「じゃあ一献」
伸ばされた指がさっと俺の盃に酒を注いだ。なみなみと溢れんばかりの水面はほんのりとうす黄色い。さっきまでと同じもののはずなのに、いつの間にか月の色でも映したようなその酒をぐっと飲み干すと、向かいとその隣、二箇所からぱちぱちと拍手があがった。生白い指にも盃を持たせ、返しとばかりに徳利の中身をあけてやると、女はにこりと唇を引き、気持ちのいい飲みっぷりでそれを一息に干した。
それからしばらく三人で皿をつついたり猪口を傾けたりしていた。いくらかくだけてきたところで、「さっきそこに狐がいた」と先の話を持ち出したら、今度は本田も一緒になって「そんなわけがないでしょう」の合唱にあったので、俺はまったく腑に落ちない気分になった。本田と女は厚揚げに生姜を乗せたのを分け合いながら、くすくすと楽しげだった。女が体を揺らすたびにつる草色の帯の上で金色の帯留めがきらりと光った。
そろそろお暇します、と女が立ったのは一時間もした頃だったろうか。飲まれるものは飲まれ、なんとなく場が一段落した、ちょうどその隙間をつくようなときだった。
「おふたりは、このあともごゆっくり」
女は首を傾げ、残された俺たちも、また機会があればなどとそれらしいことを言いながらかわるがわる頭を下げ、彼女のゆくのを見送ろうとした。
女の帯留めが、今にも駆け出さんというかたちの狐の細工であったことに気がついたのはその時だった。俺はなぜだかそれがとても特別なことのように思え、あ、と声をあげた。女は俺のようすにちょっと驚いた顔をした。それから両目をつぶるようにして笑顔を作った。と、思ったら、女は突然ぱっと身を翻し、驚くべき速さで店内を駆け抜けた。足の先にはガラス戸がある。ぶつかる! 声をあげそうになった直前、女はとんとひとつトンボを切った。目を瞠る間もなかった。白い袂が空になびく。くるり、と円を描く。地面を蹴った女の脚は二度と着地をしなかった。女の姿が掻き消えたあと、そこには秋風のあのさみしく甘い香りが残っているのみだった。
「なんだ今のは」
こんなに狭い店にもかかわらず、瞬きの間にも満たない大立ち回りに注目していたのは自分たちだけだった。俺は浮いた腰もそのままに呆然と呟いた。
すると本田は心底呆れた顔をして、なにを言ってるんですか、と肩をすくめた。
「ご自分で言っていたじゃないですか。狐ですよ」
狐、と俺はおうむのように繰り返した。ええ、狐です、と本田はこっくり頷いた。そして、
「秋ですからね」
ふふふ、と漏れる忍び笑いに、獣の声が唱和した気がした。どこか遠くから。
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