野分
ぶどう狩り
「いいですねえ、秋の味覚」
新聞を見ながら本田がこぼした。なるほど、なかほどの紙面には「秋の行楽」の題字と、いかにも本田の好みそうな食べ物の名前が踊っている。新秋刀魚、梨、きのこ、栗。脳裏に浮かぶ秋の味は、みなふっくりと深い色をしている。
「秋刀魚なら角の店に出ていたぞ」
そんなに食いたきゃ買ってこい、というつもりで言うと、本田は眼鏡を外しながら、いやですよ、と顔をしかめた。
「秋のものは自分でとるからいいんです。購ったんじゃ、味が落ちます」
そんな約束になっているとは少しも知らなかった。しかし言われてみれば、黒い森のほとりへきのこや木の実を拾いに出かけた記憶は色づいた秋の木々と同じほど鮮やかである。俺は、なるほどそうか、と頷いた。
「とはいえ、秋刀魚を釣ってくるわけにはいくまい」
あれは大きな仕掛けで獲る魚である。糸を垂らして一匹、また一匹と釣ったなどどいう話は聞いたことがない。
「あれはしかたないです。でも、やはり秋の味覚の本質はそこですよ」
本田はやけにきっぱりと首をあげ、そこで気づいたように膝を叩いた。
「そうだ」
「なんだ」
「狩りに行きましょう。ぶどう狩り」
思えばこれがすべての発端だったのである。
約束の日、指定の場所に着いたら、当たり前の顔をして兄がいた。
「どうしてここにいる」
直入に聞けば相手は不満顔である。
「誘われたんだよ」
「本当か?」
乞われもしないのにあちこちに出かけて行って場を破壊、粉砕している姿を知っているだけに、思わず詰問調になる。口をとがらせて拗ねだした兄に代わって本当ですよと答えたのは、間に挟まれる形の本田であった。
「なんでまた」
言外には「このうるさいのをわざわざ」というのが含まれている。本田は地図からやっと目をあげて、晴れ晴れと笑みを浮かべた。
「ギルベルト君は腕がたちますからね」
「だろ! やっぱ本田は俺様の素晴らしさをわかってるぜ」
お前には俺のぶどうやんねえからな、と舌を出す兄をはいはいと適当にかわし、本田の示したバスに揺られながら、俺は、はて、と内心頭を傾げていた。
腕? なんの腕?
兄がひとに褒められるような特技といえば、子どもの頃から毎日欠かさず日記をつけていること、それくらいしか思いつかない。体を動かすのは得意だろうが、たかだかぶどうへ鋏をいれるのに運動神経のあるなしもなかろうに。
そんなことを考えているうちにバスはうねうねとした山道を進んでゆく。車窓のむこうは沁みるような広葉樹の連なりである。むかし本田に、こちらでは山は笑うんです、と教わったのは、あれは春の霞のなかだったと思う。春淡く笑い、夏はみどりの滴る如し。冬は身をこごめて眠り、そして秋は、山粧う。ちらほらと赤や黄色に裾を染めながら、いまだ艶やかとは言い難いみどりの濃淡は、さながら素肌の横顔というところか。
「おい、見ろよ」
つつかれて目をやれば道沿いの沢を二頭の鹿が渡っていくところであった。つがいであろうか、大小の影はじっとこちらをうかがっている。錦の気配忍び寄る森を背後にひっそりと頭をもたげる獣の佇まいは、なにやらひどく侵しがたく、柄にもなく敬虔な気持ちにさせられた。そんなふうだったから、ガラスに額を押し付けて二頭を見送った兄が、にやりと口元を歪めて悪い顔をしたのに俺はげんなりしたのだった。
「美味そうだったな」
「あなたはなんでそうなんだ」
憤る俺の横で、本田は横で肩を震わせて、やっぱりお誘いした甲斐がありましたね、と何故か満足そうであった。
そのわけはすぐに知れた。
「これはなんだ」
わさわさと繁った五角形の葉の下で、俺はぎゅっと眉を寄せた。
「弓ですよ」
「それはわかるが」
言ったきり、俺は手の中のものを見下ろし途方にくれた。長さでいえば七尺超。漆でも塗ってあるのか、長弓は木漏れ陽を受けつやつや光っていた。戸惑う俺の隣で、兄はぐるぐる腕を回してやる気十分のようすである。本田はいつの間にか風呂敷を敷いて、すっかり傍観を決めこんでいた。
「弓なんて久しぶりだ。腕が鳴るぜ!」
「期待してます」
「誰にもの言ってんだ。俺様が百でも二百でもとってやるよ」
「そんなにいりませんが、ご近所に配りたいので二十はあってもいいですねえ」
和気あいあいとしたふたりの間で俺の困惑は深まるばかりである。頭上を覆う葉はたしかにぶどうのそれであるが、手のひらほどもあるおおきな葉と葉の間には紫の実のひとつも見えなかった。名前もわからぬ鳥の声だけが降るようである。ぶどう狩りと聞いたのは間違いだったろうか。自分の記憶を辿ってみてもそんなわけはないのだが、横で楽しそうにしている兄の装いはどう見ても狩りのそれだった。
その時である。本田がふと髪を揺らし、
「あそこに」と短く声をあげた。
兄の反応は早かった。さっと矢をつがえたかと思うと、一呼吸のあとにはひゅっと風を切る音が森を走った。少し遅れて羽ばたく音と、まっすぐに落下する黒い影。ばさりと足元の草が揺れると、もうすべてが終わっていた。
「お見事」
「さっすが俺様! 見たかよ、ヴェスト!」
なあ、と乱暴に肩を抱いた腕よりも、俺の心は草の上に横たわるものに奪われていた。おそるおそる手を伸ばす。黒くつややかな兄の獲物は、手のひらにずっしりと重たかった。爪を立てるとつぷりと水気がほとばしり、芳しく濃厚な香りがたった。
「……ぶどうだ」
「よし、どんどん狩るぜ!」
矢筒を斜めに引っ掛けて兄は犬のように走っていく。追われるように次々と羽の音が遠ざかる。
「ああもう。あんなに騒ぐから、ぶどうがみんな飛んでいってしまう」
焦れたような言葉に反して本田の声は楽しそうであった。俺は諦めた気分で目をつむった。行きて楽しむ。そう書いて行楽である。再び開くとちょうどよい枝の上に、明けと暮れの間の空を煮詰めたような色をした翼がふんわりとたたまれるところであった。その瞳は瑞々しく、熟れた秋色をしていることだろう。隣が微かに微笑むのが見ないでもわかる。俺はそっと息を吐き、静かに弓を引いた。
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