[spritzer]

野分

津軽

 寄っていきませんか、などとこの男が誘うのは実に珍しいことである。意外だという気持ちが伝わりでもしたものか、本田は書類をしまいこむ手を休め、わけを言ってみせた。
「きのう、津軽がきましてね。あなたの話をしましたら、お会いしたいと言うものですから」
 津軽というのがこの国の北の土地を指すことばであるという知識は俺もおぼろげに知るところである。だが、それに「会う」とは? それ以上を問うても本田は意味ありげに笑うだけである。こうなれば聞き出すよりも見るのが早い。遠回りになるのもかまわず、誘われるがままについていくことにした。途中で酒と鯖のしめたのを買う。どうせなら一杯飲んでいってやろうという魂胆である。本田もどうやら乗り気のようで、茄子のもらったのがありますからあれを焼きましょう、などと口元をほころばせている。
 そんなことをやりながら招き入れられた座敷は常のようすと違っていた。きれいに片付けられた八畳間の、いつもなら座卓のある場所に、段ボールの箱がぽつねんと鎮座していた。華美ではないが意匠を凝らした部屋に、質素な箱はまるで似合っていなかった。主は少しも気にしていないふうである。手をかけたかと思うと、封をいささか雑なやり方でべりべりとはがした。きっちり閉ざされていたふたが開く。胸がすくような、懐かしいような、そういう香りがしたのは一瞬のことである。だが、俺はそれよりも、箱の中身に目を奪われていた。一抱えもある箱の中に納まっていたのは、新雪のごとく真っ白な綿と、その中心で黒々とさみしげな種ひと粒であった。と、本田が身をかがめた。
「つがる」
 普段から、本田は低い良い声の持ち主である。岩に水の沁みいるようにひろびろと響く声である。それが今日はことさら伸びやかに、慈しむような余韻さえ乗せて降りそそぎ、落ちた。
 は、と俺は言ったろうか。それともそれは芽吹きの音であったのか。平べたい種が応えるように震えた。小指の爪ほどの黒がふたつに割れ、ほとばしるように根があふれた。頼りなく見えたのは瞬きの間。芽が、幹が、枝が。伸び上がり、梢がとがり、葉があふれ、めまぐるしい変化は息を継ぐ暇もあたえない。いつの間にか見上げるほどになった緑が天井を押し上げ、みしみしと頭上が軋む音がする。枝一面にぽつりぽつりと白が兆したと思えばもうほころんでいた。はらはらと花弁は海になり、風になり、散りゆくのを惜しむようにひと際おおきな蕾が結ばれたのは俺の目前であった。
 花芯のあるべき位置でほほえんでいた娘へすんなりと手を差しのべられたのは、おそらく俺の許容量がすでに限界を迎えていたからであろう。娘ははにかむように頬を染め、それでも素直に手のひらを重ねた。顎のところで切りそろえられた黒い髪がさらりと舞ったかと思うと、娘はもう花から抜け出て俺へ並んでいた。肩より少し低いところからこちらを仰ぎ見る瞳は黒に近い茶。胸がすくような、懐かしいような、甘いような香りがその体からするようで、俺は慌てて指を引き抜いた。花から生まれた娘は滲むように目を細める。そして睫毛を伏せると心臓の上で小鳥でもあたためるように両の手を重ねた。
「お手を」
 娘が初めて口を開く。儚げな外見に似て囁くような、だがしかしさからうことを許さぬ強さに、俺はつい先ほど引っ込めた手を再び差し出してしまう。娘は満足そうに頷いて、合わせたままの細い手をそうっと開いた。赤い。思うのと、はっきりとした重みを手のひらに受けるのは同時である。続いてふたつ、みっつ、よっつ。次々と降る決してちいさくないまるみを取り落としそうになり慌てた俺の肩に、うふふ、といたずらめいた吐息がかかり、風がごうと吹きわたり、思わず閉じた瞼の際をあの甘酸っぱい香りがかすめるように撫でた、と思えば、次に目を開いたときにはそこは元の八畳間であった。段ボールの横で膝をついた本田がおもしろそうにこちらを見つめていた。
「気に入られましたね。あの恥ずかしがりに」
 指すのは紅い林檎である。転げ落ちそうなほど腕にいっぱいの、甘い果実である。品名に「津軽」と書かれた宅配伝票を本田は破りとって丁寧に畳んだ。
 帰り道、風呂敷に包ませた林檎と書類鞄をぶらぶらさせながら、胸の上に手をやってみたのは単純に思いつきである。思えば多少は酔っていたのかも知れぬ。娘がやったのを真似て温めるようにすると、背広の胸元がふとふくらんで、手のなかには林檎があった。風呂敷のなかで娘の胸からこぼれたものがさざめくように笑っている。まったく、おかしな夜である。俺はひとつ息を吐くと、己の胸からあらわれた果実へ歯を立てしゃりしゃりと食ってしまった。

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