野分
薄
よくよく考えて見れば、背を目にした時点で予感はしていたのである。
見晴らしのいい畦道に黒いものが丸まっている。よく見れば人影である。道の端でしゃがみこんでいる姿は主からはぐれた影のようであった。近づいてみれば黒い帽子に詰襟の洋装。マントまで羽織っているのがおそろしく昔ふうであるが、格好からして学生であろう。具合でも悪くしたか。動かないのに心配になって思わず声をかけると、顔をあげたのはこちらがハッとするほどの美青年である。思わず面食らったこちらに、相手はにやりと笑いかけた、と思ったら次の瞬間には女になっていた。狐であった。
「先日はどうもご馳走様でした」
「好きでおごったわけでもない。お前が勝手に消えたんだろう」
「あら、そうでしたっけ」
しゃがみこんだまま狐は肩を震わせた。なんということはない。からかわれているのである。癪なのでそのまま通り過ぎてしまおうかとも思ったが、いつまでも座っているのが気にかかる。それで、どうした、と目線で問えば、狐は柳のような眉をすっと下げて泣き笑いのような顔をして言った。
「急いでいたら、鼻緒が切れちゃったんですの」
見れば手の中に草履を抱えている。切った拍子に転びでもしたのか、手のひらが擦れて血が滲んでいた。白い足袋が土に汚れているのも目に入る。掬い上げるように上目をつかう。それがやけに憐れに映るのが困ったことである。俺は深々と溜息を吐くと、膝をついて背を向けた。
「乗れ」
狐が息を飲んだのがわかった。早くしろ、と促すと、ふうと微笑む気配がして、ぬるりとした滑らかさで女の手が背に触れた。
「いいのかしら。女をおぶってお嫌じゃなぁい?」
狐の世界にも遠慮というものはあるらしい。ためらっているわりに甘えた口を利くので、
「どうでもいい。気後れするくらいならさっきのように男の格好をしたらいいだろう」と言ってやると、そうね、と狐はあっさり笑い、では失礼、と首にすがりついてきたときにはもう男の腕だった。
「親切ですね。疑ったりはしないんですか。わたしがこのままあなたを襲うかもしれないって」
首筋に制帽の黒いつばが押し付けられる。目線をやればその下でぬらぬらと濡れる切れ長の目を覗き込めるような気もしたがそうはしなかった。肩のあたりに生温かい息遣いを感じながら、俺は憮然とこう言った。
「道端にうずくまっているのを放っておけるか」
話は変わるが、自分の性分ほどわからないものはない。
友人にフェリシアーノというのがいて、これがとんでもない女好きである。やつと道を歩こうとすると、百メートルを行くのに何分かかるかわからない。それというのも、あいつが女と見れば声をかけまくるせいである。歯の浮くような言葉を並べたかと思うと、次の瞬間には手を握っている。それで連絡先を握らせるくらいならまだましな方で、そのあと仕事があるというのにカフェへ連れ立っていこうとするのだから、俺としては恥ずかしいやら、頭が痛いやらである。そんなことが続き、いつだったか「いい加減にしろこの女好き」と叱ったら、本人は心底不思議だという顔をして「俺、女好きじゃないよぉ」などとのたまうものだから呆れて言葉も出なかった。お前がそうでないというのなら、この世の男はみな同性愛者である。だがフェリシアーノに言わせれば、やつのやっていることは「礼儀」であり、「普通」のことで、そうしない俺のほうが「非常識」なのだそうだ。
こんなふうに、突出した性分を持っていても本人は中庸のつもりでいるというのは往々にしてあることである。もちろん俺も例外ではない。俺自身は平々凡々と暮らしているつもりでも、友人知人親族等、周りのやつらは謀ったように口を揃え、俺をひとつの言葉に当てはめたがる。背中の狐も同輩らしい。
「苦労性、と言われるでしょう」
「言うな」
くすんくすんと泣くような音をたてて狐は笑っていた。胸の前で交差した指の先で、鼻緒の切れた履物がぷらぷらと揺れている。
武蔵野の道は秋であった。砂利道の両側を覆いつくすように伸びた草は、みな一様に夕日にくぐらせたような陰影を帯びている。乾いた血の色の吾亦紅。路肩に咲くうす紫の小菊の群生。そしてなによりも目を奪う、燃えつくばかりの草はら。
「見事なものだ」
一面の薄野原に俺は思わず感嘆の声を漏らした。こんな場所がどこにあったかと疑いたくなるような景色である。垂れた穂先が一斉にそよぐようすはまるで火影のようだった。西の風がその形を示すように何度も何度も渡っていく。
「青いころ、夏には薄。秋、開いて尾花」
獣の尾のようにふくらんだ綿毛を指して背中の声が言った。すんなり伸びた青い葉と開いた花では、表す季節も名前でさえも、まるで違うと狐は言う。
「おなじものですけどね、変わるんです」
「ふむ。出世魚みたいなものか」
あわせてやると、色気が足りない、と詰ってくる。うるさい狐である。抗議代わりにわざと乱暴にゆすりあげようとし、俺は背中の質量が変わっていることに気づいた。でもね、と言う声は高く、女のものでも、男のものでもない。男と女に分かれるよりずっと前の、これは子どもの声である。やわらかく壊れそうなむき出しの腕が首へからみつく。
「でもね、これだけは忘れちゃいけません。どんなに形や名前が変わっても、やっぱり本当はおんなじものなんですから」
「……狐と哲学をやるつもりはないな」
視界に入る腕が制服の黒になっていることを確認して俺はそう答えた。背後で狐は、冷たいですね、と楽しそうであった。今度は男の声だった。
「どこまで送ればいいんだ」
いっそそこいらで下ろしてしまおうか、と思いながら俺は訊ねた。くるくると姿を変えながら狐は答える。
「すぐですよ。もう月までは来ていますから」
「月?」
「ええ。これを見たらわかるでしょう?」
狐の指の先を見ると、黄金に輝く薄野原であった。俺の知っている月面とはまるで違うようすであるが、狐がさも当然というふうだったから、俺は問い返すのも面倒になって、こうとだけ言った。
「月にいるのは兎だと聞いているぞ」
「ああ! それはまったく迷惑な間違いですよ。兎なんかに月のお役目が務まりますか。やっぱり手前ども狐の、この毛皮でなけりゃ」
狐をおぶった手に、ふわりと何かが触れる。やわらかく、なめらかで、あたたかい。見るまでもなく、それが狐の尾であることがわかった。俺は目線を遠くへやった。見晴らした先、薄のこうべを風が撫でている。そよぐと火の粉のように光が散る。見ているうちにあの穂先が狐の尾のように思えてくる。一面の草はらのそこかしこに、金色の毛並みをそよがせて狐がうずくまっている。そんな夢想をしていると、背後の狐がふと声色を沈ませた。
「惜しいです」
「なにがだ」
「あなたのこの姿が」
生え際で囁かれるとこそばゆい。やめろ、と俺は言った。だが水気の多い息遣いは自重という言葉を知らぬようである。惜しむように首筋をさまよっていた息に、べろり、と舐めあげられたのは次の瞬間であった。俺が声をあげるより先に、狐は背から飛び降りていた。その顔を見て俺は少々面食らった。からかうような目をしているとばかり思っていたのに、狐は白々とした美貌をさみしそうに傾けていた。ふ、と息を吐く。それが風になってつむじを巻いて野原をかきわけていく。
「こんなに、ここに似合いの髪なのに。あなたがここで暮らしてくださったら、月だっていまの二倍は明るくなるでしょう。――でも、だめですね」
風でも読むように顔をあげる。横顔につられて俺もそちらを向く。すると、なにやらその方向へ行かねばならぬという強い衝動がむくむくと湧いてくるのであった。これは一体どうしたことか。困惑して狐を見ると、影のような格好をした青年は薄に抱きとめられるようにして笑っていた。
「月まで届く声で呼ばれちゃ、どうやったって引き止めていられない」
これを、と狐は手を出した。中には黄金の穂を出した薄が束になっていた。さよなら、と言われたかもしれない。もしくは、また、と。確かにわかったことは長いマントが翻ったという、それだけであった。視界が遮ぎられたは瞬きの間。その隙で、狐はもういなくなっていた。一個の大きな生き物のような顔で野原が風に吹かれていた。それきりだった。
どうしたものかと考えても出来ることはたかがしれる。俺は先ほど惹かれた方角にぶらぶらと足を進めた。いくらもしないうちに、おおい、おおい、と声がして、目を凝らすと兄であった。
「なにやってんだ、こんなとこで! 心配したじゃねえか!」
駆けてきた兄は怒ったように肩を打った。
「心配?」
「するだろ、心配! 薄採りに行くって言ったきり、いつまでも帰ってこねえし。見に行けばいねえし。こんなところにいやがるし」
そうだった、と俺は唐突に思い出した。
本田のところで月見をするというので、飾りを任されたのだった。裏の原に薄が生えてますから採ってきてくださいませんか。団子を丸める手を休めぬ本田の声を聞いたのはまだ昼のことだったはずなのに、見ればあたりはほの暗く、頭上に広がる星粒の輪郭もはっきりと濃かった。
「ずっと、探していてくれたのか」
「そうだよ。悪ぃか」
いつだって荒れた声のひとだ。だが、不機嫌に返されたものは常よりさらに掠れている。そんな気がした。
「んで、薄は? あるな? あーもー、走り回ったら腹減った!」
ぐんと伸びをする。それでもういままでのことはすべて忘れたとばかりに兄は振り返って歯を見せた。
「早く戻って団子食おうぜ。あと芋。酒もあるし」
先をゆく背の向こうに金に輝く月がある。その表面は、目の錯覚か、さざめききらめくように見える。――まるで、一面の薄野原が風に小波を立てるように。
「……俺は、月に住みそこねたな」
「んー? なんか言ったかあ?」
いつの間にかずっと先に行ってしまった兄は振り向いて怒鳴った。それに俺は首を振って、今度ははっきり聞こえるように、
「帰ろう、兄さん」とだけ言った。
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