[spritzer]

R.I.P. SHERLOCK

 ノックを三回。
 戻った沈黙へ向けて、もう二回。それから叩き壊す勢いで四回。
 工事現場の様相を呈してきた騒音にこちらもいいかげん嫌気がさしてきたころ、ぎぎいと陰鬱な音をたてて地獄の門――もとい、地獄のふたは開かれた。
「うるさい」
 ニシンの腹みたいに生白い肌をのぞかせた男は、顔を半分かくしたまま目も開けない。そうやっていると彼の生気の乏しさは死の国からの使者にふさわしいわけだが、しかし自分は知っていた。この男のひどい顔色は、間違いなくただの睡眠不足が原因である。なにせ目の前の男は、この二日間ほとんど寝ていないのだ。
「ルール違反だぞ。ジョン。プライベートの空間に踏み込むな」
 そのまま閉められそうになったのをすんでで引き止め、ジョン・ワトソンは叫んだ。「うるさい、だって?」
「それになんだって、君! 『プライベートの空間』? それを言うなら共有の空間に生首だのあやしげな魔術の道具だのこんなものだのを持ち込むのはルールに反さないって言いたいわけか。なるほどね! それは結構だ! 結構だよ、シャーロック!」
 最後のほうははっきりと区切るように叩き付け、ジョンは肩で息をした。それほどの労力を払っているというのに、目の前の男はそよ風になでられたほどの感慨もないようすだった。目を吊り上げるジョンの前で、シャーロックはことさら億劫そうに寝返りをうつと、犬猫を払うように手を振った。
「閉めてくれ。眩しい」
 ジョンは、一瞬、目の前に転がっているものをすべてまとめてテムズ川に沈めてやろうかと考えた。もちろんこの男ごとだ。この部屋で暮らしはじめて、ジョンは自分が並外れた忍耐と理性の持ち主であることを知った。そして同時に想像よりずっと大ざっぱで鈍感な人間であることを渋々ながら受け入れた。そうでなければとっくにパトカーの世話になっているか、精神科のドアを叩いているに決まってる。探偵と――しかも、世界でただひとりのコンサルタント探偵なんていう馬鹿げた人種と!――暮らすということは、つまりそういうことなのである。
「いいから、この馬鹿なベッドをどうにかしろ。サラが来るんだ」
「『馬鹿な』だって?」
 客が来る、というところをきっちり無視し、シャーロックは目を眇めた。それがこの男の憐憫の(より正確に本人の言葉を借りるなら「憐れを催すほど馬鹿だな、君は」の)表情だと知っていたので、ジョンは身を硬くした。
「まったく心外だな。これは上物だぞ。運ぶのにも苦労したんだ」
 間違いなく自分の手は一ミリだって使っていないくせに、シャーロックはしゃあしゃあとそんなことを言ってのけた。ジョンは眉間のしわがさらに深くなるのを自覚しつつ、彼の言う『上物』を眺めおろした。
 たしかに、物が良いのは本当かもしれない。骨董もインテリアも門外漢だが、黒光りするなめらかな肌や、シンプルだが凝った細工のレリーフは、そうそう簡単にお目にかかれる物ではないように思えた。ちらりとのぞく内装は落ち着いた葡萄色のビロード。あれならば極上の眠りをもたらしてくれるに違いない。そりゃあもう天にのぼるほどの悦楽だろう。なにせ、ベーカー街221Bのこのフラットに突如現れた彼の<寝床>は、永久のやすらかな眠りを約束しているのだから!
 ジョンは拳を振り下ろした。十字架を避けて着地した手のひらは、分厚い板を不恰好に打った。
「馬鹿も休み休み言え! 棺桶に良いも悪いもあるか!」
 とにかく早くこの縁起でもないものをどこかへやってくれ。訴えの前にシャーロックは迷惑そうな顔を隠しもしなかった。やれやれと上体を起こし、同居人の手によって痛めつけられた棺桶を撫でると、こちらの無知を哀れむように首を振った。それから、牧師みたいな重々しいやりかたで口を開いた。
「高度な思索に必要なものはなんだかわかるか、ジョン」と彼は言った。
「ひとつは孤独。次に静寂。さらには、適度な暗闇と上等なクッション。最後に、ほどほどの狭苦しさ。そうやって得られる知的活動でのみ、人間の精神は天国にも地獄にも自由に行き来できるんだ。いいか? そう考えると棺っていうのは実に理想的な思索装置だろう」
「ご高説いたみいりますがね、サー。その思索とかいうのは惰眠って言葉で置き換えても問題ないやつだろう」
 ばっさり切り捨てるとシャーロックはあからさまにムッとしたようすで唇を引き結んだ。それにもかまわずジョンは辛辣な言葉を重ねた。
「だいたい、君がこんなふうに閉じこもっている理由だって僕は見当がついてるんだ。いいじゃないか、ビデオゲームで負けたくらい」
「うるさいな!」
 シャーロックは弾かれたように怒鳴った。
「口を慎め、ジョン・ワトソン。これはそういう問題じゃない」
「ムキになるなよ。ただのマリオカートだろ」
「違うね」
 そこだけ切り取ってみれば、シャーロックの姿はまるで気高い探偵そのものだった。――大人気なくいじけ、結果として馬鹿みたいな立て篭りを決行した張本人だなんて誰も信じないだろう。
「なにか細工があったはずだ」
「あるわけないだろ。馬鹿馬鹿しい」
「いいや。そうに決まってる。だから僕は負けてなんかない」
 丸二日、文字通り寝ずの特訓を詰んで望んだリベンジでまで完膚なきまでに叩き潰されたのはどこの誰だ、とジョンは冷めた心で思った。が、さすがにそれを口に出すほど冷徹ではなかった。第一、もしそんなことを言ったら、この恐ろしく偏屈で負けず嫌いの探偵が今度こそ「勝つまでやる」と言い出すに違いなかった。ただでさえ、一晩つきあわされているのだ。これ以上の迷惑は勘弁こうむりたかった。
「わかったよ。わかったから、そこを――」
 どけ、とジョンが言い切るより前に、シャーロックは棺へ手をかけていた。制止する間もなくぴちりと閉じられた木棺を前に、ジョンは呆然と目を見開いたした。敵は篭城を選んだ。まさに、これを篭城と言わずしてなんという。
「君な――!」
 ジョンはあらん限りの罵詈雑言を吐き出すための息を吸い込んだ。しかし口汚い言葉はひとつだって発声されることはなかった。メールの着信音がそれを遮った。
『僕は眠る』
 液晶画面にはそれだけが記されていた。差出人は言うまでもなかった。ジョンはなんだか毒気が抜かれたような気分で、吸い込んだものをすべて吐き出した。
「君は子どもか」
 呟いてみたらそれは正しいことのようで、ジョンはひとりで吹き出していた。知るか勝手にしろ、と心の中で思ったときには、言葉とは裏腹に、怒りみたいな激しい感情は微塵も残っていなかった。呆れを通り越した相手には親愛のような情が湧くらしいということも、ジョンが最近知ったことのひとつだった。まったく、とうなじを掻いて、ジョンは携帯電話を取った。
『食事は外でしよう』
 サラへはそれだけ送ってして、返事も待たずジョンは階段を駆け下りた。午後九時になっても夏の宵は明るかった。タクシーを待つ間にもうひとつメールを打つ。短い文面は、ついさっき聞いた言い訳めいた口上と、ふかふかのベルベットが頭に残っていたから、『天国の』と、そうやってはじめた。
『天国のシャーロック・ホームズ――やすらかに眠れ!』
 それが本当に天上へ届くことを夢想しながら、ジョンはロンドンの街へと飛び出していった。

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