しあわせな指
幼い雨の日、理髪店の長椅子に寝転んで、龍捲風が立ち働く姿を見るのが好きだった。鋏の合わさる軽い音。大人たちの低い笑い声。鼻の奥がスッとするような、シェービングクリームの匂い。身に馴染んだそういったものが、雨の日はやけにくっきりと感じられた。
一仕事終えると(時には一仕事しながら)、龍捲風は煙草に火をつける。流れるようにタオルを畳む間にも、右手と唇の間で紫煙が往復する。漫画の束をめくるふりをしながら、信一は煙草を燻らす龍捲風を視界の端に収めた。
龍捲風が煙草を吸う姿を見るのが好きだった。中でも、人差し指と中指の間に紙巻き煙草を挟みながら、遠いところへ視線をやって考え事をする横顔を盗み見るのが一番だった。
何気ない仕草ひとつが、憎らしいほどきまる人だった。
憧れ、という言葉のことをその時の信一はまだ知らなかったけれど、こんな風に見つめるだけで目が奪われ、思い描くだけで喜びと寂しさで胸が苦しくなる存在を「そう」と言うのであれば、この男こそが信一のただひとりの相手だった。
ふと、龍捲風が顔を上げた。
いつの間にかじっと見てしまっていたことを知られたくなくて、信一は体を丸めて寝たふりをした。瞼をきつくつむると、ふっ、と笑った気配がして、頬にひやりとしたものが触れる。甘苦い香りのする指の背が、信一の頬に押し当てられる。
「昼寝には遅いぞ」
「……」
「下手な狸寝入りだな。ん?」
頑なに目を閉じていると、頬を摘まれる。無遠慮で親しいやり方に、唇の端が自然と弛む。
「そろそろ買い物に行くんだがな。魚と肉、どっちがいい?」
「…………にく」
バツが悪くなって目を開くと、咥え煙草の龍捲風が、面白そうにこちらを見つめていた。
その目も、好きだった。
煙草の香りの染みついた、細くてひんやりとした指も。
隠し事をするところだって、腹は立つけど好きだった。
龍捲風という男を形づくるすべてが、初めて会った日から、きっとずっと好きだった。
たぶん、今でも。
ふ、と煙を吐き出す。
中指どころか薬指と小指までなくなったから、憧れて真似たあの吸い方はもうできない。煙草を始めたばかりのガキみたいに指先で摘む格好悪い吸い方をする自分が、滑稽でおかしかった。
信一が失った三本の指は、抗争のどさくさに紛れてどこかへいってしまったらしい。すぐに繋げればついたかもしれないと四仔は悔やむ様子だったが、信一は不思議とすっきりとした気分だった。
きっと、あの男に焦がれすぎて、地獄までついていってしまったのだろう。本当のことはわからないが、信一はそう思っている。
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